金曜日のクラスでは、このことについてお話ししました。
癒されていない思いは、
そこにとどまり、
あなたと共に、浄化されるのを待っている
自分にとって、嫌な思い、辛い思い、苦しい思い、そういう思いは、潜在意識の奥の方に押し込まれてしまっていて、自分自身も気が付かなくなっている。だから、癒しがなかなか到達しない、ゆるしがなかなか起こらない。 そんなことを、うっすらと感じませんか?
そして、
ああ、聖霊はなんでもできるんだから、そういう根深いものをいっぺんにパパッととっちゃってくれればいいのになぁ。 どうぞ助けてください。アーメン(キリスト教じゃないけど言ってみる)
なんてことありませんか?
そのことについて、詳しく書かれているところがありました。
何十回読んでも まだまだもっと深いものが出てくるそれがACIMですが、
またまた「ぎゃふーん!そんなこと書いてあったっけ?」が起こりました。
テキスト:第五章『癒しと全一性』Ⅳ-2〜3
癒されない思い
「こういう人に、こういうことを言われると傷つく」という指向を、私たちはいつの間にか自分の中に構築してしまっている。
だから、同じようなことで、何度も嫌な思いを繰り返す。
- 子供の頃の嫌な思いを、ひょんなことから思い出し、心の傷を確認する。
- 苦手なタイプがなんとなく出来上がっていて、その人の言動を前もって推測している。
- 「この人はこういう人だ」と、すでに型が決まっていて、聖霊として出会うことをしようとしない。
ルーティンで、「おはよう」って片付けないで、
朝出会った時に、「この人の聖霊とちゃんと出会いたいな」と思って、
自分の聖霊にお願いして、相手の聖霊にもお願いをして、そして、おはようっていうようにする、それが聖霊に出会う、聖霊にオープンであるということです。
なのに、「なんとかさんってこういう人、この人と今日も仕事ね!」と雑に始まっちゃうわけ。一日が〜
なぜ、それはずっと残っているのか
テキスト(Ⅳ-3-8〜10)
8あなたが分かち合えるのは、神に属する想念と、神があなたのためにもっておく想念だけである。
9そして、そのようなものからなるのが、神の国である。
10その他のものは、聖霊が神の国の光の中で解釈し直して、分かち合われるにふさわしいものにするまで、あなたのもとにとどまる。
- 分かち合えるのは、神に属する想念、つまり愛の思いだけ(8)。
- 許せない思いや傷ついた思いは、そのままでは分かち合えない。
- だから、聖霊が解釈し直して、分かち合われるにふさわしいものにするまで、あなたのもとにとどまる(10)。
傷ついた記憶が心の奥に残っているのは、このため。
「神があなたのために持っておく」っていうのは、幸せでいてくださいっていう思いです。
その思いは自分ひとりでは消せない
テキスト(Ⅳ-2-9〜10)
9あなたは過去の誤りをひとりで無効にすることはできない。
10それらは、あなた自身が作り出したのではない治療法、すなわち、贖罪によらなければ、あなたの心から消え去ることはない。
自分ひとりでは消せないのは、、、
- 罪悪感がくっついた思いは、心の奥底に埋めてしまうので、自分ではどうにもできない。
- 奥底に埋没させているそれらの思いが消えるためには、聖霊と周りの人の力によって経験する「あなたも神の子、私も神の子」という贖罪の経験によってだけ。
だって私悪くないんだもん!こういう叫びを伴っている思いには、、よくよく見てみると、自分への罪悪感がべっとりくっついている。
だからこそ、それだけは見ないようにしている。 そうなって、深層心理の奥底に自ら押し隠している暗い思いは、神の子たちとのアトーンメント/贖罪の体験でのみ治療されるって書いてあります。
贖罪って何かっていうと、あなたも神の子だし、私も神の子なんだよっていうことを体験することだと思うとわかりやすいと思います。
分かち合おうと決めることが、浄化になる
テキスト(Ⅳ-2-11、Ⅳ-3-11〜12)
Ⅳ-2-11 贖罪は、純粋な分かち合いの行為として理解されなければならない。
Ⅳ-3-11 それらが充分に浄化されたとき、聖霊はあなたにそれらを与えさせる。
Ⅳ-3-12 それらを分かち合おうという決断そのものが、それらの浄化である。
分かち合うのは、「善きこと」でなくていい
- 「こんなに苦しい」と誰かに話すのも、分かち合い。
- 分かち合うのは、いい話でなくていい。愚痴でもいい。
- 愚痴を言って「憂さを晴らした」と思うのか?
「愛で聞いてくれてありがとう、安心して信頼してお話ができるのはあなたのおかげです。」という思いなのか? ということです。 - 愛に意識が向いていれば、それは愛。
自分の罪悪感にしか思いが向いていなければ、それは、愛に戻すことだったと思い出すことです。
分かち合うとなると、良いことを分かち合いましょう!と 自動的に思っていることに気が付くと良いですね。
そんなことを思っているから、分かち合うことがなくなってしまう。
分かち合いたいという思いがすでに愛なのだから、安心していましょう。
人のお役に立ちましょうなんて、そんなことしなくて、どんどん愚痴でもいいのです。
愚痴を言うときに、これらの思いで愚痴を言えばいい、聖霊がやさしく守ってくれます。
ある日、パーっと光が当たる
- 聖霊と一緒にいろいろなことを見る習慣を続けていると、ある日、自分自身の傷つく傾向があることに気が付く。そのことを「光が当たる」という。
- そのとき、意味もないことを、ひねくれて受け取っていたんだった。とか理解がくる。それが起こると、過去の同様な記憶が一気に癒されて、傷ついた記憶は勘違いと書き変わる
- そうやって、記憶・こころの浄化が起こる
- きっかけは、道行くおじさんの一言のような、ささいなことのこともある。
傷つけられたって思って抱えている思いがいっぱいある。
だけど、よくよくみてみると、相手が傷つけたのか?
それとも、自分がわざわざ傷つくことを選んだのではないか?相手の何気ないことばを、勘違いしただけでは?
というふうに記憶の上書き、書き換えが起こります。
そのような過程のことも、「光が射す」といいます。
光が一旦入ってくると、似たようなことで傷ついていたと思っていたことも、塊のようにいっぺんに取り除かれます。
だから「奇跡的!」と感じるのですね。
感覚の扉を開く
- 五感のすべてを、聖霊にオープンにしている感覚でいること。
常に奇跡は起こっている。ピックアップできるかどうかは、あなたの訓練度次第。 - この訓練は、日常の習慣の中に取り入れるとやるようになる。
蛇口に触ったら必ず聖霊に開く。とか、なんでも良い。 - 思考を止めて、感覚だけを受け止める状態を1分2分でもいいから作ること。
聖霊と共にとは?
「朝一回、聖霊とともにって祈ります」という方結構いますが、それは、何もやってないに等しいです。 朝、晩しっかりと何分間も座って心の状態を整えるのは、とてもいいことです。その日1日を聖霊に捧げる準備としてとても有効です。
それと、「毎朝聖霊に、お願いしますって言っています!これでいいですよね?」は全然違います。それではナニもしていないに近いです。
聖霊と共にとは、訓練のいることなのです。
そのためには、ある日常的な動作に紐づけて、なにかをすると自動的に「聖霊お願いします」と思い出すものを作るといいです。
車を通勤に使う方は、車のドアに触ったら「聖霊」と思い出すようにすると、その日を一日中聖霊と過ごせるようになるためのきっかけ作りになります。 そういうものをなにか一つ作るといいですね。 とにかく脳神経のつながりを繋げ直すことでハッピーな思考の日々にしたいわけです。
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